レオナール フジタ

展覧会情報藤田嗣治展
芸術新潮を見ると展覧会のだいたいの内容が分かります。

芸術新潮 2006年 04月号 [雑誌]

芸術新潮 2006年 04月号 [雑誌]


群像を描かしたら藤田の右にでるものはいない。
そのなかの戦争記録画が5展も一緒に展示されるのは初めてです。
フジタは、名家の出身だったのですね。

腕白小僧、画家を目指す
 藤田嗣治は、1886年(明治19)11月27日、陸軍軍医・嗣章の次男として東京府牛込区新小川町に生まれた。四人きょうだいの末っ子である。4歳で熊本県池田町に転居。翌年の夏に母まさが34歳で病死した。寂しがり屋の少年は姉に添い寝してもらうが、小学校では腕白ぶりを発揮して級友と算盤で殴りあったり、墨汁をかけあって真っ黒になったり。早くもこの頃から北斎や為永春水に親しんで絵を描きはじめ、最初の絵の先生は徳川時代の版画だったと、後に語っている。12歳で東京の小学校へ転校。算数は苦手だったが、図画はいつもクラスで一番。
 1900年、東京高等師範付属中学校へ進学。同年開催されたパリ万博に、日本の中学生の代表作品の1点として水彩画が出品された。この頃、医者になることを期待する父に、画家になりたいと面とむかっては切りだせず、手紙を書いて投函する。夕方、自宅に届いた手紙を読んだ父親は、意外にも黙って50円を息子に渡した。さっそく画材を買ってドイツ産ビスケット缶の装飾を模写したのが、油彩第1作。中学4年生でフランスに憧れ、ひそかに暁星中学の夜学に通ってフランス語の勉強をはじめる。

◆「生誕120年 藤田嗣治展−パリを魅了した異邦人」を機に
3月28日→5月21日 東京国立近代美術館
5月30日→7月23日 京都国立近代美術館
8月3日→10月9日 広島県立美術館

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生涯に渡る作品を網羅した回顧展が、いままで開催されていなかったのは驚きですね。

その理由は、戦時中の活動の責任を問われたことと、作品の著作権の問題で家族とのトラブルがあったこと。

この二つが大きいようです。特に遺族の方は著作権の問題には慎重です。

それだけ誤解を招きやすい画家なのでしょうね。

会場は春休みでずいぶん混み合ってます。

お花見もかねてお早めにどうぞ。