岡本太郎の『今日の芸術』読む。

「鉛筆と紙さえあれば、
どんなバカでも描けるものが、
どうして描けるとか描けないとか、
ややこしい問題になるのでしょうか。
描けないというのは、
描けないと思っているからに過ぎないのです。
うまく描かなければいけないとか、
あるいは、きれいでなければ、
などという先入観が、
たとえ、でたらめを描くときにでも
心のすみを垢のようにおおって不自由にしているからです。

うまかったり、
まずかったり、
きれいだったり、
きたなかったりする、
ということに対して、
絶対にうぬぼれたり、
また恥じたりすることはありません。

あるものが、ありのままに出るということ、
まして、それを自分の力で積極的に押し出して表現しているならば、
それは決して恥ずかしいことではないはずです。

見栄や世間体で自分をそのままに出すということをはばかり、
自分にない、べつな面ばかりを外に見せているという、
偽善的な習慣こそ非本質的です。

自分をじっさいそうである以上に見たがったり、
また見せようとしたり、
あるいは逆に、実力以上に感じて卑屈になってみたり、
また自己防衛本能から
安全なカラの中ににはいって身を守るために、
わざと自分を低く見せようとすること
(よくある手で、古い日本の社会では賢明な世渡りの術とされてきたのです)
そこから自他ともに堕落する不明朗な雰囲気ができてくるのです。

路傍にころがっている、
石ころと木の葉がある。

そこにそのまま、
ただあるということがたいせつです。
人間はちょうど石ころと同じように、
それそのものとしてただある、
という面もあるので、
その一見無価値なところから新しく自分をつかみなおすということに、
これからの人間的課題があるのです。」