芥川龍之介の百間の『冥途』評

冥途

冥途

 この頃内田百間(うちだひやくけん)氏の「冥途(めいど)」(新小説新年号所載)と云ふ小品を読んだ。「冥途」「山東京伝(さんとうきやうでん)」「花火」「件(くだん)」「土手(どて)」「豹」等(とう)、悉(ことごとく)夢を書いたものである。漱石(そうせき)先生の「夢十夜」のやうに、夢に仮託(かたく)した話ではない。見た儘に書いた夢の話である。出来は六篇の小品中、「冥途」が最も見事である。たつた三頁ばかりの小品だが、あの中には西洋じみない、気もちの好(い)い Pathos が流れてゐる。しかし百間氏の小品が面白いのは、さう云ふ中味の為ばかりではない。あの六篇の小品を読むと、文壇離れのした心もちがする。作者が文壇の塵氛(ぢんぷん)の中に、我々同様呼吸してゐたら、到底(たうてい)あんな夢の話は書かなかつたらうと云ふ気がする。書いてもあんな具合(ぐあひ)には出来なからうと云ふ気がする。つまり僕にはあの小品が、現在の文壇の流行なぞに、囚(とら)はれて居らぬ所が面白いのである。これは僕自身の話だが、何かの拍子(ひやうし)に以前出した短篇集を開いて見ると、何処(どこ)か流行に囚(とら)はれてゐる。実を云ふと僕にしても、他人の廡下(ぶか)には立たぬ位な、一人前(いちにんまへ)の自惚(うぬぼ)れは持たぬではない。が、物の考へ方や感じ方の上で見れば、やはり何処(どこ)か囚はれてゐる。(時代の影響と云ふ意味ではない。もつと膚浅(ふせん)な囚はれ方である。)僕はそれが不愉快でならぬ。だから百間氏の小品のやうに、自由な作物にぶつかると、余計(よけい)僕には面白いのである。しかし人の話を聞けば、「冥途(めいど)」の評判は好(よ)くないらしい。偶(たまたま)僕の目に触れた或新聞の批評家なぞにも、全然あれがわからぬらしかつた。これは一方現状では、尤(もつと)ものやうな心もちがする。同時に又一方では、尤もでないやうな心もちもする。(一月十日)

 中井久夫によると、夢の特徴は、切れ目、切断(caeser)があることである。
芥川は「百間の作品を見たままに夢を書いた」と評している。
もやもやとはっきりしない風景、黒い影、切断されて、場面の変わる映画的ストーリー構成。
小説なので、夢そのものを想起して書いたわけではないが、夢から着想を得たことが、作品に夢幻的な様相を与えているようだ。