テルーの唄と「こころ」

こころ
           萩原朔太郎
こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
こころ」によく似てるなぁと思って帰ってきました。朔太郎は詩の本質は暗喩だと考えていた詩人です。つまり、「どうして水が怖いか?」「水が怖いからどうしたらいいのか?」ということではなくて、「どういうぐあいに水が怖いか?」というのを詩にしようとしたのです。

上のブログの出人さんは、若山牧水の「白鳥は悲しからずや」の詩との類似を指摘しています。

さて、詩人の荒川洋治さんが、『諸君』に二つの歌詞を対比して、ほとんど宮崎吾朗の詩が改作であることを論じてます。

ゲド戦記 作詞者 宮崎吾朗氏への疑問  荒川洋治(現代詩作家)
貴方の御作りになった歌詞は私の詩ににすぎてはいませんか(萩原朔太郎


「テルーの唄」の歌詞は島崎藤村の詩かなんかが元歌になっているのかなぁと思っていたのですが、萩原朔太郎だったのですか。

吾朗さん自身も詩集から着想を得たことを、明言しています。

荒川さんは、テルーの唄が流れるたびに、吾朗の名前が広がって朔太郎の詩のことが忘れられていくのが悲しいとまとめていますが、

それは、どうでしょうか。

この唄がきっかけになって、朔太郎の詩が思い起こされるに違いありません。

ゲド戦記を見て、「テルーの唄」に感銘を受けたことによって、現代の歌詞と近代詩、あるいは和歌における引用(本歌取り)について興味を持ったなどというテーマで
授業のレポートや卒業論文を書くちゃっかり大学生が、頻出するのではないでしょうか。

萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)

萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)

文学は、模倣(コピー)や更新(ヴァージョンアップ)されることで、生成されるものではないでしょうか。