精神的な暴力とリスクヘッジ

近い将来、私たちは、小学校の教室での子どもたちの会話、研究室での教授による学生の指導、会議室で行われる上司の部下への説教、それらすべてをとりあえず電子的に記録し、信頼できる第三者機関かなにかに預け、普段は見ることができないけれど将来「あのとき私は暴力を受けた」と苦情を申し立てられたときのために備えておく、そういう社会に突入するのではないか。そういう気がします。

たとえば、密室で行なわれる対面のカウンセリングセッションなどは、時にカウンセラーがクライエントのトラウマを
間接的に提示したり、カウンセラーが受容したり、精神的暴力に対する免疫力をつけるような取り組みを行なう場合があります。

しかし、境界画定が難しい領域では、何が傷になるかは客観的な判断にゆだねられるわけです。
治療のプロセスに応じて、トラウマに本人が自覚的に取り組むことをサポートする場合もあります。

場合によっては、症状が一時的に悪くなるようなことで、回復が進むこともあります。

また反対に、カウンセラーが未熟で、ただ話を聞くだけで何も変わらない場合もあります。どちらの立場からしても

カウンセリングのリスクヘッジとしてビデオに記憶していて、治療が適切なものであることを示すことも必要ではないかと思います。

ただし、ここでも治療関係に必要な、相互の信頼*1をどのような形でつくるかということが前景化してくることが
あります。

いじめのやり方に、携帯やパソコンといったテクノロジーを媒介とすることで、直接手を下さないで相手を苦しめるということはありえます。

夜神 月が名前を書いただけで、殺人を行なうことができるDEATH NOTEが人気を博す由縁は、こんなところにもあるように思います。

東浩紀さんが、考えている環境管理社会は、徐々にリアルなものになっていますね。


id:suganokeiさんから、コメントをいただいて、私なりの考えをすこし、進めてみました。興味のある方はコメント欄をどうぞ。

*1:ラポール