ゆとりをもって学力向上

高校が予備校化して、もう生徒は爆発寸前。

進学校「裏カリキュラム」問題、生徒にしわよせがこないように。これは朝日新聞の主張のポイントです。あるいは建前上の見解と考えられます。

本音の部分は朝日の記事にある。「生徒は自分の受験に必要のない科目だと授業など聞かない。卒業さえできれば、成績なんてどうでもいい(世渡りはうまい)という生徒も多い」
最後の部分は、高校の成績なんて、どうでもいいけど大学は、ブランド大学(ランクの高い大学に行く)ということを付け加えておきましょう。
ここでいう、世渡りは"コミュニケーション能力"が高いと表現することもできます。今日は、ちょっと辛辣な内容のブログになっていますね。
朝日の時時刻々にまとまった、記事があります。
進学校「裏カリキュラム」は下記のサイトからご覧下さい。

愛媛県今治東高では、世界史B、日本史B、地理Bのうち1科目しか授業を受けていないのに、生徒があと1科目も履修したようにしていた。履修した科目の試験を内容を変えて2回実施し、通知表ではその成績を基に履修していない科目も評価していたという。


裏カリキュラム問題には、教育格差が解決できない根本的な問題(慢性化した症状))が現れています。
たぶん今の教育改革、ないしは"格差をつくらない"という政府のスローガンの背後にあるのは、御しやすい(従順な)国民をつくるということでしょう。あるいは従順に、国の規則に従う者から不満が出ないようにするということにつきます。

受験教育偏重は、ゆとり教育(週休5日制)が生んだというような側面があることは確かです。土曜日に授業をするような私立学校に入学できる経済力を持った家庭 *1の子弟に、有利な制度であるということ。
そういった、学校間の格差、あるいは学校の中で生じた格差(クラスの中で塾通いができる子と、遊ぶ子)を埋める方法として、考案された裏カリキュラムは、必修教科の代わりに受験勉強をするという、苦肉の策です。

生徒はとんだ、とばっちりを受けましたね。名門校に進学するレベルの生徒ならば、1、2年生の内に70時間を別な教科に当てるのはそれほど厳しい要求ではないからです。

さて朝日新聞では東大教授(教育学)・佐藤学が次のような理想論(空論)を述べています。
「高校にとっては、大学受験に合わせた教育をするだけでいいはずはない。それを超えた教養教育を目指して、現状を根本から変えてほしい。今の高校*2には、それだけの力があるはずだ。」

これ自体、ナンセンスなコメントです。
幅広い教養を身につけなおかつ、大学受験にも強い学校といったら伝統の私立校ということになり、新しい高校の出る幕ではなくなってしまうからです。

内田樹さんのこの問題に関するコメントはこちら

それは「自分にできること」があれば、「自分にはできないこと」ができる人々とのコラボレーションを立ち上げることができるからである。
「自分の知らないこと/自分にできないこと」の中に位置づけられてはじめて「自分が知っていること/自分ができること」は共同的に意味をもつ。
だから、「自分の知らないこと」は「知る価値のないことだ」というふうに思い込む子どもを組織的に作り出しているのだとしたら、そんな学校は存在しない方がましである。
「架空履修」をした学校の教師たちは、そのような危険な思い込みを生徒たちに刷り込んでいたことに果たしてどれだけ自覚的であったのだろうか。
現に、これから始まる受験のハイシーズンに受験と無関係の教科の補習を強いられる生徒たちの多くは激怒している。

「エンドレスの『教育破壊』はどこまで続くのであろうか」とシニカルな論調。

もう少し、わたしは、分かりやすくこの問題について言及したいとは思ってます。
あんまり、この記事読んでくれる方はいないんだよな〜。
このブログの筆者もかつて、東京の伝統進学校*3で勤務した実体験や実感をもとにして書いています。この問題でレポートを書きたいと思っている、学生の方にこの記事は役に立ちましたでしょうか、少し気になります。

*1:あるいは、土曜日に限らず、授業時間が足りない分を塾に通わせる余裕のある家とといってもいい

*2:もちろん、県立の受験校の生徒は学力面では、優秀なことに、私も異論はありません。この今の高校が意味するものは、一般的な公立高校ではないでしょう。

*3:都立R高校