岡崎乾二郎をまねる

 覚書のためのメモ

 国立近代美術館 の わたしいまめまいしたわ
展に、岡崎乾二郎の作品が展示されているのだが、私はよく見ないで通りすぎてしまった。

 斉藤環は、以前からクオリア批判をしていて気になっていた。
 確かに、この文章を書いている私も、いろいろな赤を、すべて赤と認識するところに、人間の脳の統合性のすぐれた機能は、あるのだが、それが、どう美術作品のすばらしさと結びつくのかは、よくわからない。
 作品があって、美術批評は存在する。作品に先立って、批評が独立するのは、小林秀雄や、それをまねた柄谷行人の初期の批評、あるいは蓮実の映画評などがある。
 個人の芸を楽しむわけである。
 芸術は、作者の芸を楽しむものであって、抽象的な概念を論じて、楽しむものではないが、もちろんニコニコ動画に代表されるように、作品をめぐるコミュニケーションの共有を楽しむポストモダン現象というものもある。
 

斎藤環が信頼するアーティストはそういった「素朴な私の全肯定」(俺が赤だと感じたんだから、それは赤なんだよ!! みたいなものか?) そういったものからは距離を置いている。例えば会田誠は、そういったアウトサイダー表現に見られるような「私」を先鋭的に拒否している。中ザワヒデキもそう。作品制作の過程に「私」を介在させないよう意識しているのだという。

で、じゃあ「私」を介在させずに何をどう表現するのか? と、ここで岡崎乾二郎クオリア批判を引用し「『赤でありながら赤らしくない』というのが赤の色を知覚すること」であるのと同じように「『私』らしくないものを『私』が作ってしまう必然性に表現の本質が宿る」のである、としている。

いささか乱暴な要約になってしまったが、この「現代の眼 567号 12-1月号 (2007-2008)」は薄くて安い割に面白く読めるのでお買い得だと思うので、興味のある方は買って全文読んでみて欲しい。

 会田誠の作品は、これでもアートはかまわないじゃないという、肩の力がぬけたというか、馬鹿馬鹿しい面白さがある。
 岡崎乾二郎の作品の前に立つと、私はすごく緊張する。


「アートで候」展の二階、「山愚痴屋・澱エンナーレ2007」 のコーナーにあった会田誠浅田彰批判の作品が面白かった。その絵には以下のキャプションが付いている。

 
会田 誠

美術に限っていえば、浅田彰
下らないものを褒めそやし、大
切なものを貶め、日本の美術界
をさんざん停滞させた責任を、
いつ、どうのようなかたちで取る
のだろうか。

  (以下、この作品を《浅田批判》と名付ける)

 キャプションを読めば、この作品が岡崎乾二郎のパロディだということはすぐに判る。浅田は椹木との対談で、岡崎がスーパーフラットを単純なジャポニスムではなく、世界の美術史の文脈なかで考えることができる画家だと絶賛しているのだが、その岡崎の絵とそっくりなのだ。そっくりなのは絵だけではなく、タイトルも長いところがパロディになっている。ネットで見られる岡崎の作品のタイトル(キャプション)の一つを面倒だけれど、作品理解に役立つので引用する。