世界にであうレッスン

「世界」にであうレッスン―『不思議の国のアリス』を読む (ロンド叢書)

書物をはじめとする旧来のメディアでは隠れていた見えない蜘蛛の巣(Web)のような無尽蔵の関係性としての世界を原理的に見えるようにしてしまい、なおかつそれを意味付ける働き(インテリジェンス)さえ実現しようとする動きがウェブの進化である。それは、私が一冊の本を読むという経験を通して無意識に行っている「世界の意味付け」に相当するグローバルなスケールの精神の働き(intelligence)の実現、まさに、グローバル・ブレインの実現に向かう動きである。

ネットを通して、私が観た世界を、意味づけること。

リアル世界を豊かにするために、ネットを使う。あたかも、グローパルブレインが、どこかに存在するような錯覚に陥るが、
そういった主体はどこにも存在しない。

ネット世界では無尽蔵のリンクが存在するが、それを統合するような意識は存在しない。あるいはネットの外にある人間の中に
だけ存在する。

そのことによって、わたしたちは、従来イメージしている神の眼差し(一神教)から解放される。ネットは何も統合はしない。

私は、そのようにネット世界を意味づけるが

それは、多少は読み手の見方に影響を与えても、読み手の意味づけを決定するものではない。

そこには、無数に意味づけ可能な、雪原のように真っ白な2次元世界がある。

家のすぐ上を通り、八丁平へと続く未舗装の道路に線路が敷設され、そこを木製のトロッコが行き来していたからである。大人たちがそれを「トロッコ」だと教えてくれて、その不思議な響きに興味を覚えた。定かではないが、そのトロッコに乗せてもらったかすかな記憶もある。しかしトロッコが当時何のためにどのように使われていたのかはまったく憶えていないし今も分からない。

id:elmikamino さんの ブログ と 研究室からの引用。

わたしのいとこは、1960年 輪西の病院で生れた。

そして、三上さんとほぼ同じ経歴*1をたどり、栄校に進学したが、大学は東京で卒業した。

そのいとこから、なんどもこのトロッコの思い出ばなしを聞かされたことを思い出した。

これは、私にとっては意味があるのだが、三上さんにとっては、たぶんどうでもいいことなのではないか。

多くの人によって、トロッコの役割はたいした意味がないように。ただ、私にとってこのトロッコは意味のあるものだ。

このように、ネットの面白さは、まったく予想できない、思いがけないつながりを発見することにある。ここでも世界は、どうでも意味づけられる。

ただリアル世界では、今こうして、いる瞬間にも地球岬に北風が吹き抜けていく。

*1:美唄に転居してもどる部分はなく、室蘭でずっとそだった。