こころと世界のinterface

東大の哲学の先生に
 野矢茂樹(のやしげき)さんという方がいます。
 分析哲学が専門。20世紀最大の哲学者、ウィトゲンシュタインの研究では世界トップクラスと評される。また、過去の哲学者の研究だけでなく、自ら現代に「他者とは何か?」といった、新しい哲学的問題を問いかける。また、東大に禅堂をつくって
学生と一緒に座禅を組む哲学者でもあります。(僧侶ではない)
 彼が言っていることは面白い。

 例えば、目の前に白い蛇が登場したときに、二人の目撃者がいて、一人は「白」と言い、もう一人は「黒」という。
  目の前に登場した蛇は「白い」わけですから、白い蛇という事実が、共有できることとして「世界化」される。一人は、間違ったことを言っている。
  それに対して、蛇が登場したときに、一人は「かわいい」と言い、もう一人は「気持ち悪い」という。
 このとき「かわいい」も「気持ち悪い」は、世界化はされず「こころ」の中に押しやられる。どちらも、間違いではなく、そう感じている。それを理解することは可能。
 これが、みきおさんの

思考にはそういう閉鎖性がない。

私が他の国よりももっと頭の産物であるアメリカに住んでいるのは一つにはこの思考の公平さへの信頼があるからだろう。

 コメント欄での
”社会の共通ルールを前提にした「察し」”と同じことを言っているのだと思います。
 feelingは、その人のこころの問題。気持ちが分かるのは世界化の問題(あえて、問題という言葉を使っている、命題でもいいや)と言えるのではないでしょうか。
 そして日本人(アジア人)は、欧米人に比べて、自他の区別があいまいで、こころと世界が渾然としているのだと思います。

 欧米人は、こころの問題よりも、世界の問題の方を重くみるのではないでしょうか。
 だから、ワールドワークというような形で、場をもうけて、こころの問題にもアプローチするように思います。

 日本の場合は、もともと感情(こころ)が大切ですから、言葉で世界化するというよりは、アルコールのような、より自他の区別をあいまいにするドラッグで、こころと世界の一体化を促進するように思います。