北山修はどうしてこころを扱う医者になったか

広場に行きたくないって人がいたら、それじゃ広場に行けばいいっていうよりも、その広場ってあなたにとってどういうふうなものなんだろうとういことを考えていく治療法のほうが向いていると思ったんです。
 何か、人生ってそういうふうに、あーだこーだとそれについて考える方が面白いので、広場に行けてしまったら話しにならないみたいな。略−

 個人分析をうけて、でも、私たちはやっぱりそんなに簡単に治らなくて、むしろそれについて考えることができるようになるとか、それまで邪魔な問題だったのが、何かより良い生き方にいかされるようになったとか、そういうことが私には大事なように思えるんです。悲しんだり落ち込んだりはするけれど、それで打ちひしがれて仕事ができなくなってしまわない程度の方向づけ、とういようなものを可能にしてくれる教育分析、個人分析というものがあったんです。
幻滅論

 一年半の個人分析を受けて、もっとも強調したいことは、その間にとてもたくさんの歌ができたとういことなんです。つまり夢だとか自分のことなんかについてああだことうだと考える時間が、毎日一時間、週五時間ぐらいできるんです。

 人の話しを聞くのではなくて、自分のことについてたった一人の人にここだけの話しですよと信頼して、ああだこうだと考えるなんて、そんなぜいたくは得難いと思ったんです。
一言で言ってしまえば、精神療法とか精神分析を商売にしてますけれども

 私のやっていることというのは自分のことを言葉でああだこうだと考えるための時間を保証し、そのことによって人生の物語が紡ぎだされていくとういう、そんなことを目標にしたいわけです。
その結果、抱えている問題が生かされるような生き方が見つかったりとか、あるいはより良い使われ方や生かされ方が見つかればいいなと思っています。

 それはあえて言ってしまえば、創造性、クリエイティビティを育てるとういことが目標になるんですかね。そういうことが一応の課題だと思うんです。